人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ナラティヴ研究会主催者のエッセイとお知らせ


by masanao1956

バイロングッド著『医療・合理性・経験』(誠信書房)

バイロン・グッド著『医療・合理性・経験』(誠信書房)

病気になるということは多くの人間のとって唐突で理由もわからない錯綜した事態としてもともとは現れることです。
それを人間はなんとか理解し意味づけたり理由づけをしようとします。
混沌とした事態を人間が整理してまとめ上げるには様々な形式があるとカッシーラは考えました。原因-結果の関係でまとめ上げていくのはいわゆる科学ですが、それ以外にも神話や宗教のように因果応報で整理することもできるでしょう。
グッドは、医学もそうした病気にまつわる混沌とした事態を整理し、対処するために形式であるとみなしたのです。病気の名状しがたい状態に、医学の用語を当てはめ(医学的なシンボルに置き換え)、同時にそれらを医学的な身体の体系と因果関係におさめ、そうしてどのように働きかけるかを考える、それが医学というシンボル形式だと言うわけです。
しかし医学以外にも病気という事態を整理しまとめていくやり方はあるはずです。病人とその周りの人間にとってはどうでしょうか。彼らが病気という事態に直面したとき、それはまるで意味のよくわからない文章(テクスト)のようなものとして現れます。病人とその周囲の人々は、そのわけのわからないテクストを何とか筋(プロット)の通ったお話にまとめ上げようとします。それはちょうどむずかしいテクストを読み解きながら、どうやらこの話は、こんな話らしいと言う風に自分なりに話をまとめている読者に似ています。読者は理解にむずかしい話を読みながら、同時にそこに自分なりに読み解いたお話を作り上げているのです。突然の発病とその後の苦難は、それなりにすじのとおったお話のまとめ上げられていきます。
筋がとおったお話のパターンは、実は案外、決まっています。それには人類共通なものがおおいですし、少なくとも、ある文化には、筋がとおった話のパターンというのは数が限られています。病気をめぐる事態をまとまったりお話にまとめるとき、人間はそれらのいくつかのパターン(プロット)を使ってまとめていくのです。

しかし、事態は今後どのように進展していくかはっきりしませんし、またたとえ病状が絶望的と思えても、わずかな望みを捨てたくはありません。ですから話はもう確定したものだという風にまとめることはできません。それは絶えず、別の新たな展開にも開かれたものになっていなくてはいけません。そのためには別の話の筋へと持って行くことが可能な形でお話がまとめられていなくてはいけません。そのために本筋とは別の筋が話にふくませてあるということも大事です。が、それ以上に大切なのは、話がきっちり確定したものではなくて、「今のところこういうことだとしたら、こういうことになるといえるだろうな」というような形に話をとどめておかなくてはいけません。そうした寸止めみたいな話の落とし方を、グッドはブルーナーから借りた「仮定法化」という言葉で表したというわけです。
 病気をめぐる事態はどんどん変化していき、それとともに本人も周りの人間もわいわいいいながらそれをそれなりに筋のとおった、しかし変化と展開に対応できるような、お話のまとめていきます。それは一人でつくる物語ではなくて、いろんな人間が口をはなさみながらつくる、いわば多声的な物語だというわけです。(それはちょうど、バフチンはドストエフスキーの小説についていったのと同じようなことになるというわけです)。
by masanao1956 | 2006-09-27 07:50 | 人類学