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ナラティヴ研究会主催者のエッセイとお知らせ


by masanao1956

『医療・合理性・経験 バイロン・グッドの医療人類学講義』


第6章 病いの物語的再現=表象
「病いと病いの経験とを形作る『形成的行為』は本来社会的なものである・・・。・・・病いの意味は、語るという行為を通じて構成されるものであり、そこには患う人やその家族やその他の関係者や治療者など、皆が関わっている。テキストの意味と同様に、病いの語りの意味は、しばしばそれ自体が複数の著者たちによって生み出された複雑なものであり、テキスト自体や、読者/聴く者のなかに存在するものではなく、社会的に作り出されるものなのである。それは社会的に共有されるものである。・・・病いの語りは『現実を仮定法化する』ことによって良い結果を生む・・・。それは過去に向かって、苦悩の起源を考えるということについても、将来に向かって、苦悩を癒し和らげる可能性を考えるということについてもそうなのである。」(ⅷ)
発作性(失神/てんかん)の障害をもつトルコ人の話の聞き取りから
「てんかん」というより「失神」という言葉を用いる。失神が古典的な硬直性・間代性発作を記述するのにもちいられる文化的カテゴリーで、「てんかん」という言葉ほどスティグマ(汚名)となっていない。
「病いは、いつかの典型的な物語構造のうちに『プロット化』されていた。」(239)
「われわれが経験について多くを学ぶのは、人びとが自分に起こった、あるいは自分を取り巻くものごとについて語るストーリーを通してであることが多い。物語(ナラティヴ)はひとつの形式であり、そこでは、経験が再現され詳述され、出来事が意味のある一貫した秩序として呈示され、活動と出来事が、それらに伴う経験や、関与した個人にその意味を与えるような重要性に沿って描き出される。しかし経験はつねに、その記述や物語化をはるかに凌駕する。新たな疑問はつねに、主観的な経験についての新しい省察を引き出す。そしてわれわれは誰であれ、その経験の新たな次元を明らかにするようにストーリーを語り直しながら、つねにある出来事を少し異なった視点から描くことができる。・・・
 物語は、現在という、位置が固定され限定された視点から描くことによって、経験や出来事を報告し詳述するだけではない。物語はまた、われわれの欲望や戦略を目的論的に構成しながら、そして、われわれの人生や特定の活動が実現するような、経験の構想された目的や形態にむけてそれらを方向づけながら、われわれの活動や経験を未来に向けて投影する[project? 投げ出す]のである。(242)
病いの経験の記述におけるこの「物語論的転回」(247)
これまでの物語論は民話神話の構造主義的分析と物語的行為遂行の社会言語学的研究。
「私は、病いを持つ人が、彼らの経験についてわれわれに語るストーリーの分析に『読者反応』(reader response)理論を用いることの妥当性に関心を持っている。」(247)
受容美学;イーザーの『行為としての読書』:「文学テクストは、読まれることによって、始めてその作用を展開しうる。それゆえ、文学テクストの作用の記述は、おおむね読書過程の分析に一致する」という基本的事実認識を出発点にとって答えたテキスト理論(402頁)
「読書反応論者は『ストーリーを追うという行為の現象学』に格別な注意を払うことで、すべての物語が時間と結びついた間主観的性質をもつことについて精緻な理論を展開した。物語は、それが書かれたテクストであれ、民話であれ、あるいは語られ遂行されたストーリーであれ、ひとつの完成されたストーリーとして存在するものばかりではない。物語を構成するには、そのストーリーが読者や聴衆によって自分のものにされなければならない。・・・『読者は(そのテクストのメッセージを)自ら構成しながら、<受信する>のである』・・・『解釈者の課題は、テキストが内包する意味の可能性を明らかにするのでなければならない』・・・ストーリーを追うことに含まれる総合的過程:テキストの世界に想像力を駆使して入り込み、物語や語り手が呈示する視点を追うために視点の移動を行い、その物語が展開するストーリーにおける登場人物の過去の出来事や行動を再構成、再評価し、ひとつのテキストを読む経験を通して読者にとって意義と新しい意味の発見があり、そうした理解の結果、読者が個人的な変化を経験すること(249)
「読者反応論は、われわれの行う病いの語りの研究に特別の関連がある・・・。・・・多くの病いのストーリーの話者は・・・ストーリーのただ中にいる。話者の産出する物語はある完結した小説の「実際の」物語テクストよりも、あるストーリーの読者の「仮想テキスト」により近い。[グットが参照している論文「二つの思考様式」でブルーナーはジョイスの「土」という作品を読んだ後で読者にそのストーリーを自分のことばでもう一度話してもらい「仮想テクスト」を作り出している。しかしそれはストーリーを読んだ後の事後的テクストであって、ここではむしろストーリーをよみながら読者のなかでできつつあるテクストを指しているとみるべきなのではないかと思われる]。それは、出来事が展開するにつれて変化するストーリーである。そうした語りは、将来に向けて希望と不安の両方をしめし、過去と現在の複数の暫定的な読みを支える場合がしばしばある。・・・病いの語りとは、深いところで文化tけいなストーリーでもあるだろうと推測できる。」
三つの分析概念
(1)病いの「プロット化」:それによって秩序だったストーリーを探し求め書き上げれる。
(2)ストーリーがもつ「仮定法化する」特質:ストーリーが多元的なよみや潜在的に可能な結果へと開かれていることが含まれる。
(3)ローカルな談話場面における「苦悩の定位」
(1)病いの経験とプロット化
プロットの二つの側面:
ストーリーの基底の構造としてのプロット
想像力を駆使してそのストーリーに意味を見いだそうとするストーリーの読者や聞き手の活動としての「プロット化」
「プロットとは、あるストーリーに秩序をあたえるもののことである。それは出来事の継時的な編成であり、それらを相互に結びつける関係である。・・・プロットとは、継時的な関係という枠組みにとどまらず、経験と出来事とがお互いに結びついてひとつのストーリーを作り上げる重要な秩序なのである。」(251)
「現在進行しているストーリーの読者や聞き手という視点からすると、プロットとは、完成された形式ないし構造というよりは、話されたり読まれたりしてきしてきたものへの、そのストリーリーがもたらすかもしれない想像上の結果にかかわる限りでの取り組みである。・・・その病いが現在もつづいているばかりでなく、家族も、何が実際におこっているのか、何が実際のストーリーなのか、どのストーリーが治癒をもたらす可能性を持つのかということを見いだそうしつづけている。読者は「仮想プロット」を構成してり、耳に入ってきたことから布置を抽出しようとしたり、出来事や登場人物の関係の特質を決定したりすることに、想像力を駆使して取り組む。それは関連性のあるものをそうでないものから分離したり、テクストの世界における潜在的に可能な結末に考えをめぐらせたりしながら行われる。」(252)これを「プロット化」とよんでいるようである。
てんかんのインタビューをこの「プロット」と「プロッタ化」から読むとわかること
1)失神や発作のストーリーの集大成であり、こうしたエピソードの原因あるいは結果になると説明されるそれ以外の人生経験であり、有効な治療を見出す努力である。
2)いくつかのプロトタイプ(prototype原型)となるプロットの型を病いの語りの中にも認めることができる。
3)物語は完全なものではなく、ストーリーは完成したものではない。
「多くのケースのおいて、登場人物は、過去という潜在的に可能な意味を評価し、治療を深めながら、いまだに苦闘し、治癒をもとめ、---もうひとつの結論を構想することに没頭しているところだった。そのようなストーリーの語り手は、したがってストーリーのただ中にいる読者ににている。彼らは、自分が意味を持たせようとしている自分の苦境やストーリーを理解するために・・・彼らの文化的レパートリーから引き出された一連の使用可能な典型的なプロットを用いる。そして彼らは、望ましい結末へと開かれたプロットを求めながら、自分たちが苦しんでいる状態を「プロット化」することにそれでもなお能動的に取り組んでいるのである。」(254)
5つの典型的なプロットの型
1)驚愕した経験や深刻な個人的喪失をともなう重大な情動的外傷(トラウマ)から病いが始まる。
2)子どもの頃の発熱・負傷によって発作がはじまる。
3)明白な原因もなしに発作がはじまる。
4)悲嘆と貧困と苦悩の生涯。
5)邪視[evil eye アラビア語では‘ayan 人や物に災いをもたらす超自然的な力をもつ目、およびその力の行使や作用]や精霊によって発作が始まる。
「仮定法化された現実」のための方策としての複合的プロットの維持(257)
諸ケースの分析
(2)病の語りにおける「仮定法化」要素
「物語的言説がその効果を果たすのは「読者の想像力を新たに喚起する」ことによってであり、そのテキストが前提とした世界に読者が参入することを可能にすることによってである。よく[うまく]物語れたストーリーの読者は、そのドラマのさまざまな行為者の視点から状況を把握するのだが、それは、たとえそのテクストやストーリーが確固とした構造や結末を持っている場合であっても、行為者の行為やストーリーを不確定な、開かれた状態のものとして経験するからである。物語が成功するのは「現実を仮定法化する」(subjinctivizing reality)ことによってであり、・・・現実の不確定性を探求し、読者の中にこうした探求心を刺激することによってである。「仮定法で存在することは、確固たる確実性ではなく、人間の可能性をもっぱらあつかっていることにほかならない」と、ブルーナーは記している。読者反応理論によって行われる批判の中心的課題は、いかにしてひとつのテクストがその行為者の仮定法の世界に読者が入り込みことを刺激し、行為者の多様な視点へと引き込み、ストーリーがどのようなものになるかについての読者の関心を誘うか、ということを検討することである。」(267-8)
参考:現実の仮定法化
「ここからわれわれは、ウォルツガング・イーザーの『読書という行為』のなかの、物語とはどんな発話行為なのかにかんする省察へと、まっすぐ導かれる。・・・物語にかんして彼は言う、『読者はそれを作り上げることによって、それを受け取る」。テクストそれ自体は『二面的』構造をもっている。すなわち反応を導き、その反応が恣意的にならないようにする言語的側面と、『テクストの言語によって前もって構造化され』ないしは引き金を引かれる感情的側面である。しかし、この前もっての構造は十分には確定しておらず、すなわちフィクションのテクストは本来的に『未確定』なのである。」(39)
「もしも物語の発話行為にかんしてイーザーが正しいとすると、言説は、その読者のイマジネーションを取り込む---つまり『テクストの指示の下での意味の遂行』に読者の協力を得る---言説形式に依拠せざるをえない。つまり言説は、読者が自分自身の仮想テキストを『書く』ことを可能にしなくてはならない。さらにこの協力を得るプロセスに決定的だと思われる、言説の三つの特徴が存在する。
 第一に特徴は前提の引き金を引くこと、すなわち顕在的というよりも、むしろ潜在的な意味の創造である。・・・
 第二の特徴は、私が主観化(subujectification)とよぶもの、すなわち、時間を超越した真実を眺める全知の目によるのでなく、ストーリーの主人公の意識というフィルターを通した、現実の描写である。
 第三の特徴は、多重のパースペクティブ、すなわち一義的に世界をみるのではなくて、それぞれがそれのある部分をとらえるような一連のプリズムを通じて同時的に世界をみることである。・・・
 他にも、言説が意味を未決にしておく、あるいは読者による意味の『遂行を可能』にしておく、手段がある---その一つはメタファーである。しかし上述の三つの特徴で、説明には十分だ。イーザーが物語の発話行為ということで意味しているものを私なりに述べれば、それらは力を出し合って、現実の仮定法化(subujunctivizing reality)をなしとげる。。私は、「仮定法」という言葉の意味を、オックスフォード英語辞典のあげる二番目の意味から取っている。すなわち、「その形式が、想像された(しかも事実でない)行為や状態を指すために用いられ、したがって希望、命令、勧告、ないしは可能的であったり、仮定的であったり、予期的であったりするできごとを表すのに使われるその叙法(ラテン語のmodus subjunctvus)を指す」。したがって、仮定法で存在するということは、確固たる確実性ではなく、人間の可能性をもっぱら扱っていることにほかならない。というわけで『成就された』ないし『理解された』物語の発話行為は仮定法的な世界を生み出す。」(40-42頁)
 (「二つの思考様式」J.ブルーナー『可能世界の心理』みすず書房)
「私が論じたように、てんかんであるという経験のストーリーをわれわれに語ったひとびとは、その病いの意味を見出し、その結果に影響を及ぼすことに能動的に取り組んでいるのであった。彼らは「仮定法的な世界」を描くことに深く関与しており、その世界では、たとえそれには奇跡が必要であったとしても、治癒が可能性として開かれているのである。」(268)
「仮定法」を支えるトルコの語りの二つの側面
1)これらの語りが、多元的な視点や、多元的な読みの可能性を支える。
非常に独特で、通常は競合的なやり方でその病いを描き出す、病いや癒しの経験のストーリーが、物語のなかに姿を現すのは、それが仮定法という性質と、変化へと開かれてる性質をもつというまさにその理由からである。・・・視点の多元性、ストーリーの初期の段階やその[ただ中」にいる人びとの語り、過去の再評価や、変化に向けて未来を開いていこうとさらに能動的に取り組んでいる人びとの語りにおいて明白にみられる。(271-2)
2)仮定法が語りのなかに現れるのは、神秘的なものとの出会いというストーリーを通じてである。(273)
病いの語りにおけるこれら二つの[仮定法化する」要素---代わりの視点を支えることと、神秘的なことの再現=表象は、決して私が指摘することができる唯一の例ではない。ストーリーには「間隙=裂け目」(gaps)がある、つまり語られない部分や説明されない部分がある。
美的な対象や複雑な物語テクストを伴っているので、病いが一挙にすべて再現されたり、唯一の優位な位置から再現されることはありえない。それはイーザーの言葉によれば、むしろ「視点のネットワーク」として構成される。・・・こうして病いは、想像力と経験のなかに現れ、変化と癒しへと開かれたものとして構成されるのである。(277)
(3)苦悩の物語的定位
物語は直接的かつ明白な仕方で間主観的である。語りは、家族のメンバーによって共有された経験を描くために民衆的な文化形式を利用するストーリーであった。そのストーリーは、対話的に構成されたものであり、複数の人物によって織り上げられた会話によって語られる場合が多く、そのストーリーの指示する対象は多くの場合、語り手以外の人びとの経験であった。そしてそれらは、作者と語り手と聴衆(聞き手)のただ中に定位されるストーリーであった。(278-9)
権力やジェンダーの関係は、ストーリーの構造のなか、つまりそれが想定する視点のなかにのみ表現されるのではない。誰がそのストーリーの明言を許され、誰が話す権限を持ち、個人でなくて家族に属している病いを構成するのかという、根本的な構造にも表現されるのである。(281)
病いの物語的形成
物語や、再現=表象された現実の物語的形式に細かく注意を払うことによって、病いが構成されるような統合的過程への洞察が得られる。(288)
その根拠:
1)われわれは、病いについて知ることの多くを、ストーリーを通じて知るのである・・・「病い」は物語的構造を持っていて、閉じられたテクストではないが、ストーリーの集積として構成されている。
2)ストーリーはたんに、それによって病いの経験が客体化され、伝達され、他者に報告される手段ではない。それは、経験に形を与え、患い苦しむ人間自身が過去の経験をりようできるようにする最も重要な手段でもある。
3)病いの語りには、・・・虚構(フィクション)と共通の諸要素がある。病いの語りにはプロットがある。連続した語りは、輪郭を与えられると、歴史あるいは出来事として整序化される。病いの語りは不確定性と開かれたままの状態を有する。・・・語りは苦境やその克服として、そして人間の欲望の展開として組み立てられる。(289)
4)病いのストーリーはひとたび語られると、そのもともとのとりとめのない場面や行為遂行場面から自由になる[テクスト化]。・・・それらは語られ、語り直されて、多様な「読者」に利用できるものになる。(290)
5)患い苦しむ人は、ストーリーの語り手というだけでなく、いくつかの重要な意味において「読者」に似たものだいうことである。病いを抱えた者は、・・・その物語的時間の進展についれて、絶えず解釈や判断や希望や期待を変更しているのである。・・・医学的な治療は、患い苦しむ人を・・・新しい想像力に富んだ世界へと導いていく。経験の他の局面が地平へと後退する一方で、経験のまったく新しい局面が「主題化」される。・・・病いは、「間隙=裂け目」や未知のものや不可知のものにみちており、それらは想像力に富んだ反応を引き起こす。
6)病いや病いの語りには、予期せぬもの、非日常的なもの、苦境、神秘的なものとの関係で現実を作り直す潜在的な可能性がある。(290)
病いが語りとして変形されるとき、創造的な反応を引き出し、言語と経験を再活性化しながら、われわれの目を慣習的形式とその有限性へと見開かれせる可能性をもつのである。。(291)


第7章 美学・合理性・医療人類学
「一つの客体としての、つまり物理的身体状態としての疾患と、ある人生やある社会にあらわれるものとしての疾患との間の乖離を、どのようにわれわれは分析するか・・・。美学理論とは、ある絵画のカンバスや絵の具と、非情に複雑な『美的対象』つまり芸術作品との関係を探求したり、あるいは印刷されたテキストと文学的対象との関係を探求するものであるが、・・・そうした美学理論が自然主義や生物学的還元主義におちいりがちなわれわれ自身の文化的傾向に、異議を唱える手段をあたえるかもしれない・・・。美的対象は、カンバスに塗られた絵具や、楽譜あるいはその演奏に還元することはできない。それはまた、鑑賞者や音楽の聴衆の心にあるものの反映や表象に還元することもできない。美的対象、それらの間のとりわけ複雑で動的な関係の形式であり、その関係は演奏と聴衆、読者とテキスト、物質的対象と自己省察的で感覚的な反応など、いずれの場合も両者を超えるものなのである。これと類比的に言うならば、疾患(disease)とは、人間各個の身体の単なる生理学的ないし生物学的な状態のことではない。疾患は、患う人の経験とか失火の特殊な描写にそうした状態が反映されたものではない。---つまり、生物医学の文献とか、臨床家の会話とか、彼らの専門知識によって生み出される情報とか、その社会で権威を有する行政ないし政治機関によって作り出された公文書などではないのである。疾患とはこれらの間の関係のとりわけ複雑で動的な形式であり、何よりも総合的な対象なのである」(294)。
「疾患やその治療をめぐる会話に現れる、病いの「異種性」(heterology)や、声や視点を多元性をわれわれはいかにして考慮に入れるのか。こうした声が、治療や苦悩の緩和と同じく、病いや人間の苦難について、単に論評するばかりでなく構成することになるのか・・・」(295)
意味論ネットワーク再論
1977年に、私は「意味論ネットワーク」という概念を導入し、病いは単に身体の病気の状態を描き出す単声的再現=表象によって意味を持つだけでなく、・・・「相互関係の産物として、つまり、ある社会の構成員を一つに結合させる、経験や、言葉や感覚や、行動の「症候群」として意味を持つことをしめした。(301-2)
さらにわれわれは、意味論ネットワークが、社会生活の特定の領域を反映したり、参照したりするだけの文化的モデルではなく、そうしたものを生成するモデルでもあることを論じた。
意味論ネットワーク論の限界
記号論的「綜合」はひとつのシンボルが多元的な意味を「圧縮」するという限界のある理論である。われわれはすべての病いが構成される際に現れる異言語混淆性(バフチン)、つまり声の多元性をみとめていくような方向にすすむべきである。
また意味論的構造とヘゲモニー的権力関係との関連を探求すべき。
イーザーの議論によれば、テクストは体系的に経験を呼び起こすが、美的対象とは、テクストと読者の想像力を駆使した活動との間の関係なのである。・・・われわれの研究は、通文化的な比較研究における現実の構造はもちろん、「意味産出過程の解明」に焦点をあてるべきなのである。(314)
by masanao1956 | 2006-09-27 07:47 | 人類学